生命と身体 生と死の哲学(東海大学 開発工学部 講義 レポート)

98 課題論文

「倫理的側面での医療に関する死生感」

 

 

はじめに

他者危害の原則を考慮して、「自分のことは、自分で勝手に決めさせて欲しい」。この自己決定権が自由主義の個人側から見た側面である。

この考えを延長した場合に、当事者が合意の上ですることに他人は干渉しないでもらいたいということになります。ところが、社会というのは意外に不寛容で社会的合意により個人の自己決定権が限定される。

自殺もしくは安楽死の場合の場合もそうである。自分に自殺の権利があるのなら、当然、安楽死の権利という概念もある、実際は自殺する権利がなくても、安楽死の権利はあるべきだろう、これが現在一般的に抱いている基準である。

自殺権を認めよ、というのは少々問題であります、が安楽死を認めよと、主張することは筋が通ります。これは「なぜ自殺権がないのだろう」と多少なりとも、本来なら考える必要もある。

他者危害の原則を考慮し、自分のことは自分で勝手に決める、自己決定権が、安楽死や尊厳死にも通用するだろうか。

このような問題を念頭に置き、生と死についての倫理を考察していこうと思う。

 

1 倫理的側面での医療に関する生死感

 

 自殺が人間の基本的権利だから、自殺権を認めれば自動的に安楽死、尊厳死の権利も含まれるという議論がある。自殺は、個人の自己決定権に含まれるという個人主義の考え方である。

一方自殺権は認めないが、ある特定の条件により安楽死、尊厳死を認めようという議論もある。尊厳死などを認めるということは、法的には、特定目的のなどの条件が成立していれば、医師による延命の、措置の停止は、違法にならないことを確認するということになる。

 安楽死というのは、激しい苦痛を逃れる為の措置であり、尊厳死は、必ずしも苦痛回避という意味がなくても、人工延命装置につながれたままの、いわば「生きる屍」の状態となっての延命を拒否する措置である。

※「形だけの命を延ばす技術は発達したが、痛みをを100%止めてしまう技術はない。痛みをなくす技術と命を延ばす技術は別系統にある。」

(出典 丸善ライブラリー 「応用倫理学の進め」101項参照)

どうやら医療技術は、命を延ばす為の技術だけが、一人歩きしている傾向にあるようです。結果として激しい痛みとともに長生きさせられる方向へ進んでいる。これは極端な例ですが、決して無視してよい問題ではない。医療においては、生を短縮する行為は禁じられるが、必ずしも生を引き延ばすことが命じられているわけではないと考える。

命を全うさせるのが本来の目的であり、一分一秒でも患者の命を延ばすことが、医師の第一使命だという、絶対的な延命主義を機械的に適用すれば、尊厳のない生が増加する。無意味な延命、それは延命の技術が、進めば進むほど、人間として尊厳にふさわしくない命が可能となる。

生死の古典的とも言える元々の原則は、「人為によって死を招くことは許されず、運命によって避けがたく死ぬことには、諦念をもつべき。」「痛みは生きている人間の機能を確実なものとするものである。苦しみは人が人として生きている証である。」というものだったはずである。

しかし現代の医療治療は肉体的または精神的、苦しみを多く産み、そこから、苦痛から逃れようと、死を願う。人為的によって死を招くことによってしか、安らかな死は得られない、という原則が支配しているように思われる。

今日の医療における終末期の苦しみは、人為的に起こされている、自然な死に方に持っていくのが、死にゆくものへの真の医療ではないだろうか、と私は考える。

 最後にこのテーマを問題視した言葉を引用して終わろうと思う。

 

※「延命治療の技術を手にした現代医学は人間をますます死に切れなくさせ、死を悲惨なものとしている。イヴァン・イリッチは言っている。「現代医学の真の奇跡は悪魔的である。それは単に個人だけでなく、個人的健康の非人間的なまでに生かしておくということである。」    (岩波講座 宗教と科学7「死の科学と宗教」214項参照)

 

 

 

参考文献

 

丸善ライブラリー  加藤尚武 著「応用倫理学の進め」平成6年6月20

岩波講座 宗教と科学7  池辺義教「死の科学と宗教」1993年2月5日